戦の路としての瀬戸内海(水軍)

 水軍の起源に関しては諸説があるようですが、普段は漁業を営みながらも集落を略奪から守るとともに、ひとたび食べる物に困ると、沖を行く船から食糧や金品を掠め取った海人達が集団化して海賊となり、水軍として武力を提供するようになったとも言われています。集団化していくためには、組織的な統率者が必要ですが、たとえば天慶2年(939)に起こった、宇和海の日振島を拠点としていた藤原純友の乱は正に海人を集団化して利用した反乱とされています。
このような瀬戸内海における海賊お出没が盛んになるのは、平安時代初期からのことです。しかしながら、大和朝廷時代の頃にも瀬戸内海の海人達は、大和朝廷や律令政府から水軍として朝鮮へ航海する船や遣唐使の護衛を命じられていました。
これら海賊を取り締まる追補使には武士の兵士が代々任命され、平清盛の代には平氏が内海を支配しました。伊予では平安末期から河野氏、安芸では鎌倉期から小早川氏が勢力を伸ばし、幕府の命令で海賊を取り締まっていました。
南北朝時代には、伊予水軍衆は南朝方につき、浅見氏は平群島(柳井氏)へ、また多賀谷氏は蒲刈島へ移り、室町時代には伊予衆の中から村上氏が頭角を現して海の関所を設けては往来の船舶から通行料を取り立てるようになりました。
そして戦国期になって、村上氏は安芸で勢力を伸ばした毛利氏につき、熊野水軍を中心とした織田水軍と戦を交えることになりました。その後、秀吉が全国統一を間近にした天正16年(1588)に海賊禁止令が発布され、水軍は滅ぼされたり封建家臣団に組み込まれて、次第に瀬戸内海から姿を消すことになったのです。
水軍の史跡は、その総数は明らかではありませんが内海沿岸や島しょ部に多く分布しており、ことに広島や愛媛に多く分布していると見られています。これらの中には地域の史跡として指定されているものも少なくなく、たとえば有名な村上氏の史跡のうち、能島は国史跡、因島の長崎、青木、青影の三城址は広島県の史跡となっています。

  • 能島(愛媛県)

    能島(愛媛県)

  • 青影城跡(広島県)

    青影城跡(広島県)

  • 金蓮寺に建つ村上水軍の墓(広島県)

    金蓮寺に建つ村上水軍の墓(広島県)